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地区の北側を流れる長良川は、郡上市高鷲町大日ヶ岳の叺谷(他説に、郡上市高鷲町見当山の本谷)を源流とし、揖斐川に合流して伊勢湾ヘ注ぐ、県下随一の長流である。古くは因幡川ともいい、郡上郡では郡上川、武儀郡では藍見川、墨俣付近では墨俣川ともいった。
当地は、長良川が山地から濃尾平野へと出る境にあり、川を利用した物資輸送の中継地であった。
中世、岐阜は井ノ口と呼ばれていたが、これは金華山麓長良川左岸に、井水の取水口があったためとされている。当時、長良川は、金華山麓から西流して早田、則武を通り、木田で現在の伊自良川筋を南下して、河渡に至っていたようである(長良古川)。天文3年(1534)大洪水が発生し、井水口が破れて井川となり、岐阜市江口で長良古川に合流するようになった(現長良川)。また、慶長年間(1596~1615)の洪水により、長良崇福寺前から鷺山の南、則武と正木の間を経て、木田で伊自良川筋に合流する新川(通称「古々川」)が出来たといわれている。
江戸時代後期の作と考えられている「金華山之麓長良川之図並鵜飼狩下御鮨調手順一通」(岐阜市歴史博物館蔵)によれば、金華山麓、長良川左岸の景観は、現在の鵜飼納涼観覧所付近の山腹に「鏡岩」、その下の水際に「二ツ岩」、やや下って「立壁岩」が立っていた(立壁岩を鏡岩とする書物もある)。そのすぐ下流から「小坂ノ瀬」があり、現在もこの辺りが瀬となっている。
瀬を過ぎると広大な「石河原」広がり、「丸山」の麓、「御手洗」池付近までは「薮」、続いて「畑」になっていた。柵がみえるが、これは金華山への一般の立ち入りを禁じるためである。また、明確に図示されていないが、この付近から総構えの土居(堤防)が築かれ、「畑」はその堤外であった。なお、「石河原」には昭和初期まで筏場があり、郡上市の高原土場より美濃市立花を経て流してきた筏は一旦ここに着いた。
対岸の「宮」(神明神社)と相対して、「長良川御役所」の二階建ての建物が建ち、その隣の建物は「問屋西川家」であろう。この付近が中河原湊で、秋葉堂を先頭に、「中河原町」の町並みが続いている。この秋葉堂は、現在も鵜飼観覧船事務所横に祀られている。なお、護岸の状況は、対岸「上福光村」から「中福光村」にかけては石積みの表現であるが、「中河原町」はそれと異なるようである。川はここで「古川通」と別れ、井川には、すぐ「入口ノ瀬」があった
長良川の景観が一変したのが、昭和11年(1936)内務省直轄木曽川上流改修工事の一環として実施された、古川、古々川の締切り工事で、同14年8月に竣工した。それと同時に、忠節に至る左岸、全長1,800メートルの区聞に、川表は練玉石張、上部の擁壁はコンクリートの「角落し構造」(出水の際には、柱の聞に畳を差し込んで越流を防ぐ)を備えた、強固で急勾配な「特殊堤」が築堤され、昭和15年に完成した。これは、家屋が密集し、拡幅する土地の収用が困難であるが、万一破堤の際は、岐阜市街(加納輪中)をはじめ、場合によっては境川を突破し、羽島郡内にまで水害が及ぶ危険性が懸念されたためである。「特殊堤」は、社団法人土木学会による「日本の近代土木遺産」において、現存する重要な土木構造物としてAランク評価を受けている。
さて、長良川では、古来より鮎が名物であり、それを原料とした鮎鮨、ウル力、粕漬けなどは、江戸時代献上品にもなった名産品である。
『増補岐阜志略』では、ウルカについて「渋鱁」「取交」「子鱁」の三種を載せている。なかでも献上用の「御用渋鱁」は、6~8月(旧暦)の7日から13日にかけての夜、月が没してから夜明けまでの鵜飼(暁鵜漁)でとれた鮎からつくるウルカで、鮎が腹の砂を吐き出して清浄であるため、別名「暁川」と称したと紹介している。
現在でも初夏の若鮎の腸を漬けた「渋ウルカ」、落ち鮎の雄の白子を漬けた「白ウルカ」、秋の産卵期の雌の真子(卵巣)を漬けた「子ウルカ(真子ウルカ)」などがあり、土産物として観光客に好まれている。
また、寒バエを佃煮にした「いかだばゑ」もよく知られている。
その名は、冬季、上流から流してきた筏の下に群れる寒パエを、網でとったことに由来するもので、土産物として、人気のある商品である。
このような魚を獲るための漁業権は、金華地区では、「長良川漁業協同組合」が管理している。鮎の場合、遊魚期間は、5月11日から12月31日まで(平成20年度)。
漁法は鮎漁の場合、代表的な友釣りのほか、瀬張り網、夜川網、中猟網などの方法がある。
瀬張り網は、かつて「マワリ」「回し投げ」などと呼ばれていたもので、落ち鮎のシーズンに、川幅いっぱいに、白布を張った縄を張り、下ってきた鮎の群れが、それに驚いて逃げようとする瞬間に、船上などで待っていた漁師が、次々と網を投げ入れる。長良橋付近などで、毎年よくみかける漁法である。
中猟網は、船で網を半円形に流し、上流から下りながら漁をする。夜間、照明灯で川底を照らし、棹で川底の石をたたいて、カリカリと音をたてたり、船縁をたたいたりして鮎を脅し、逃げようとするところを網にかける。この漁は水が出ているときが良い。
江戸時代、網漁は鵜飼の鵜が網にかかる恐れがあるため、鵜舟の近くで行うことは禁止されていた。現在も鵜飼期間中は、鵜飼い大橋から長良橋間での網漁は、自粛されている。
その他、雑魚を対象としたものに、四ツ手網をつかった「ボウチョウ」や、浅瀬の流れをせき止めて、受け箱を仕掛ける「登り落ち」など、様々な漁法が今もみられる。