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金華山という名前 -伊奈波神社の縁起-【金華街角コラム】

2020.03.21 4,232

金華山という名前 -伊奈波神社の縁起-

金華山伝説

 金華地区の名は、いうまでもなく金華山に由来する。標高329メートルの金華山は、長良川とともに岐阜市のシンボルである。古くは、因幡(稲葉)山と呼ばれていたことはよく知られている。

 では、金華山という名前は、というと、いろいろな説が唱えられている。

 在原行平が、勅命により奥州金華山から運んで来た金石を、美濃固に置いていったから金華山(享和元年=1801年の序をもつ『尾濃葉栗見聞集』)。奥州の金華山に似ているため(文化2年=1805年出版の『木曽路名所図会』)。「雄総の放蕩息子が流浪先の奥州金華山で改心した。金華山の小石を拾って帰郷したところ、父親は話を信じずに小石を投げた。これが一夜で成長して山となった」という伝説(大正4年発行『美濃国稲葉郡誌』)。初夏に咲くツブラジイの花で、全山が黄金色に彩られる姿から金華山となった、という視覚的な説などである。しかし、これらの説がどこまでさかのぼれるかはわからない。

伊奈波神社の縁起

 金華山という名前を使った最も早い例は、現在知ることができる限りでは、清巌正徹(1381~1459)の歌集『草根集』である。正徹は、美濃国の武将とも交流が深かった歌人だが、『草根集』には「美濃国いなばの山に社ありとて、人の法楽の歌すすめ侍りける中に五首」として、いなばの山・一石山・破鏡山・金花山の名が挙げられるとともに「弥陀・薬師ゐます」と題した一首も含まれる。実はこの正徹の和歌は、伊奈波神社の縁起が下敷きになっていると考えられる。下に掲載した縁起は、原本が傷んできたため、15世紀末に、斎藤妙椿が改めて書写させ奉納したものの写だが、その内容はおよそ次のとおりである。

伊奈波神社縁起(伊奈波神社所蔵)の末尾

 垂仁天皇が、皇后のヒパスヒメとの聞に生まれた2人の皇子に望みを尋ねたところ、兄のイニシキイリヒコノミコト(五十瓊敷入彦命)は弓矢を、弟のオオタラシヒコノミコト(大足彦尊)は皇位を望んだ。天皇はその希望をかなえ、兄皇子に弓矢を賜り、弟皇子は垂仁天皇が亡くなった後に即位して景行天皇となった。景行天皇は、イニシキイリヒコノミコトを大変重んじたが、兄弟の仲を裂こうとした陰謀により、ミコトは因幡守として赴任させられる。一方、都では天皇家の宝剣が毎夜姿を消すという大事件が起こり、占ったところ奥州の金石に心を寄せたためとわかった。そこで金石を都に召し寄せることになり、イニシキイリヒコノミコトが命じられて因幡国の兵とともに、奥州に向かう。金石を渡したくない奥州の民は、同形の石を8つ集めるという計略をめぐらせたが、ミコトは「鏡を石にあてたとき、鏡が破れれば本物」との、亡き母后のお告げにより、金石を見分けることができた。これは、高さ約1.1メートル、周囲約2.4メートルの丸石であった。ところがそれを都に運び帰る途中で、ミコトの成功をねたんだ者の陰謀により、景行天皇が、ミコトを討つために大軍を派遣した。両者が対戦したのが、美濃国厚見郡(現在の岐阜市南部。金華地区もここに含まれる)である。戦いの問、金石は椿原に安置されていたが、一夜で高さ約110メートルの山となり、ミコトとその王子たちはそこに姿を隠した。

 ミコトは、因幡大菩薩となって「金山」で衆生に利益を施され、好計を信じて兄を討伐してしまったことを知った景行天皇は、椿原の麓に社壇を造らせ、ミコトと王子たち、母后のヒパスヒメを祀らせた。これが伊奈波神社の始まりと伝え、椿原は、現在の丸山のことと考えられている。なお、景行天皇の皇子の1人がヤマトタケルノミコト(日本武尊)である。

 ここには、正徹があげる因幡山・破鏡山・一石山という名前の由来が語られる。金華山はないが、金山という名は出ている。正徹が「弥陀・薬師ゐます」と述べているのも、伊奈波神社の縁起で、弥陀はイニシキイリヒコノミコトの、薬師はヒパスヒメノミコトの本地仏とされていたからだろう。

 文明5年(1473)に美濃を訪れた一条兼良は、その紀行文『藤河の記』に「因幡山は奥州から金が化来したものと因幡社の縁起にあるそうだ」と記し、「峯におふる松とは知るや因幡山こがね花咲く御代の栄を」の歌を詠んでいる。「黄金花咲く山」「金が化来した山」つまり金花(華)山・金化山である。

 なお、同社は天文8年(1539)に、斎藤道三が現地にうつしたと伝え、これらの和歌が詠まれた時代には丸山に鎮座していた。こうした古い用例から考えると、奥州との関係を意識しつつ、伊奈波神社の縁起を踏まえて、金華山の名が成立したのではないだろうか。

「御山」金華山

 尾張藩領となった江戸時代には、因幡山・金華山は、どちらも使われていた。また、歴代尾張藩主が岐阜町を訪れると、必ず登山や遊猟を行う場であり、領主の山ということで単に「御山」ともしるされている。17世紀には、藩の役人である山廻り2名がおり、元禄8年(1695)に岐阜奉行所ができると、「御山懸り」の同心が、山内をまわって倒木などを改め、毎年正月2日には、山上に残る天守跡に鏡餅を供えた。

 明治6年(1873)に陸軍省に所属、同22年に皇室御料林となるが、このころの公文書類には、「因幡山」は姿を消し、金華山と記されるようになる。

江戸時代の金華山
(岐阜市歴史博物館所蔵「鵜飼遊楽図」より)

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