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水琴亭(米屋町) - 金華の自慢 名店探訪

2020.03.18 2,379

水琴亭

〒500-8046 岐阜県岐阜市米屋町27−2 058-262-0023
gifu-suikintei.jp

(林レポータ―)

文化人が集った老舗料亭

 創業は幕末、1864年と言われています。岐阜県出身の実業家であり茶人でもある「原三渓」をはじめ多くの文化人に愛された料亭です。黒壁は威容を誇り、昔から黒塗りの車が並ぶ光景が目に浮かび、立入り難い雰囲気がありますが、金華の地元住民の憧れでもあります。

 江戸、明治、大正、昭和、平成、令和とその時代ごとに新たな文化が生まれ華やかな宴を繰り返し広げられてきた空間ですが、ここ米屋町に移転されたのは昭和の初めであります。水琴亭という名前もかつて伊奈波神社内の境内地にあった時、小川のせせらぎが琴のように聞こえるから命名されたと先代女将から伺ったことがあります。

庭から見る雪月花の間

 敷地内に広がる日本庭園には四季折々の草木が花を咲かせます。庭の塔や石も横浜の三溪園から移し、建築を請け負った大工も三溪園の名大工 山田源右衛門によると聞いております。

茶室吸月庵広間

 メインの建物 奥の広間 村雨の間は、三溪園を代表する建物 紀州徳川家別邸の臨春閣を模して造らせており、嘗て三溪園に戦前から関わり生涯を三溪園に捧げた副園長の猪口氏を岐阜に招いた折に、本家の三溪園より建物が生きていると言われたことが印象深い思い出です。

横浜三溪園の臨春閣 原三溪の私邸
横浜三溪園の池に面した三重の塔 原三溪が市民に公開していた。
水琴亭奥座敷 村雨の間

 ちなみに二階は淀君化粧の間と水琴亭では呼ばれており、三溪さんがこの臨春閣を購入した時、聚楽第の桃山御殿と言い、秀吉所持と言われたことにより、三溪さんがそう呼んでいたのがそのまま言い伝えて、淀君化粧の間と水琴亭では呼びならわされているものと思われます。

水琴亭奥座敷2階 淀君化粧の間

 梅の花が開く時期には花を愛で、その香りに包まれながら梅を使った料理をお届け。
日本の四季を五感で味わうゆったりとした時間をお過ごしください。

 以下 昨年11月に私共が行った茶会の折々の水琴亭フォトギャラリーをご覧ください。

淀君化粧の間 現代の淀君たち
雪月花の間から見る庭と奥座敷
雪月花の間 講演の模様
講師 熊倉 功夫 ミホミュージアム館長
吸月庵小間茶室 濃茶席
吸月庵広間茶席 薄茶席

原 三溪

 三溪は、慶応四年(一八六八)岐阜県厚見郡佐波村(現在は岐阜市柳津町佐波)の青木家に生まれた。代々名主格をつとめる旧家であり、学問・芸術にも親しむ環境であった。
東京に出て、跡見女学校の助教授として歴史を教えるかたわら、早稲田大学の前身である東京専門学校に入学して政治・法律を学ぶことになったのは、明治二十一年、三溪二十才の時である。跡見女学校での教え子の中に横浜の豪商原善三郎の孫娘がおり、その善三郎に見込まれ、明治二十五年養子となった。そして当時日本貿易の大宗であった生糸の生産・輸出に従事し、第一次大戦までに養家の身代を何千倍かの巨富に築き上げたのであった。
 三溪は、生来古美術に造詣が深く、大茶人であり、大蒐集家であったが、単なる骨董蒐集家や美術コレクターにとどまらず、日本文化美に対する確固たる歴史観を把持して、日本の文化美を再建し、その世界を現出させようとし、多くの古美術を蒐集し、古建築を移して三溪園を造園した。
 また、岡倉天心とも親交深く、三溪自身も書画をよくし、独自の歴史観に裏付けられた見識と蒐集品を通して、天心なきあとの新進美術家の養成に力を入れ、横山大観・下村観山、その後に、小林古径・速水御舟・前田青邨ら近代日本画家を指導育成した。大正時代には、画家だけでなく、田中親美・和辻哲郎・谷川徹三らの学者・文化人が多く集まった。三溪は、美術品を蒐集家一人の占有物に終わらせずに社会の共有性を認め、少壮の芸術家、学者ら文化人と自由な比較研究を行い、三溪園グループを形成した。東京美術学校の講師だった矢代幸雄はそのころの三溪を回想して「日本の文芸復興の前夜のような気がする」と書いており、和辻の名著「古寺巡礼」はこの文芸復興前夜の三溪園から生まれたのであった。
 しかし、大正十二年の関東大震災による横浜の惨状を目の当たりにして、蒐集を断念し、横浜貿易復興会長として不惜身命財で横浜の復興に生きたのであった。そして引き続いて起こる経済恐慌、軍団主義の中でついに再び蒐集活動活発化することはなかった。
 昭和十四年家族、知己に見まもられながら雪舟の「山水画巻」を枕頭に置いて瞑目した。満七十一才・柩を飾ったのは園内の池から切りとった蓮花一枝だけであった。

産業界で活躍した業績

明治三十四年 第二銀行頭取。
明治四十三年 生産調査会委員に。
大正三年 帝国蚕糸株式会社社長に。
大正九年 横浜興信銀行頭取に。
大正十一年 神奈川県社会事業協会会長に。
大正十二年 横浜貿易復興会会長。日本工業倶楽部副会長。
大正十三年 帝国経済会議員(議長内閣総理大臣)。日本郵船株式会社取締役に就任。
大正十四年 南満州鉄道株式会社監事に就任。

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