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ホーム›金華日々徒然› 金華の景色四季折々エッセー › 水琴亭 原三溪顕彰茶会に寄せて「三溪翁のこころ」猪口得三 元三溪園副園長
元横浜三溪園副園長
猪口 得三
翁は三溪園をおこしたことについて、明治四十三年(一九一〇)横浜貿易新報(現神奈川新聞)に寄せて次のように述べている。
「…三溪園の土地は勿論余の所有たるに相違なきも其の明媚なる自然の風景は別に造物主の領域に属し余の所有には非ざる也…殊に或る一区を選び山紫水明の境を造りたる所以のものは人類をして此の極めて平和なる極めて平等なる自然の美に接觸せしめ其の崇高なる意味に同化せしめんとの義に外ならずと存候…茲に三溪の全区を譽げて草菜を拓き溪流を穿ち梅を養い水を湛え努めて自然の境に調和せしめ更にさの同化の意義を布演せんが爲めに奔放歴史上崇敬す可き國民性の根源を爲せる偉人の遺物(注1)を蒐集し…杖を引く人をして無言の間に其の國民性を回顧せしむるを得ずば…申すまでもなく天の領域たる自然の風景(注2)をして利用して其の大部分を構成したるものなればこれを公開するは寧しろ当然の義務にして然らされば天の領域を盗賊すると異る所なかる可し…」
大自然に対する畏敬の念と人間に対する深い理解と愛情がうかがわれる。翁は晩年白雲邸(注3)を隠居所としたがその奥書院に、屋久杉板に桜の花の透かし彫り、円頭杉板(月形)の書院窓、机の右脚に雪紋の透かし彫りと雪月花をあしらっている。ノーベル賞作家川端康成はその記念講演「美しき日本の私」で美術史家矢代幸雄博士の著書「日本美術の特質」を援用し、日本美の特質の一つを「雪月花の時最も友を思う」という詩語にまとめられるといっている。
雪見、月見、花見の名所として三溪園には古くから多くの遊覧客が相集い美しい自然の中で茶をたしなみ酒をくみかわし、歌を楽しんでいる。昔よく翁はニコニコしながらこの有り様を眺めていたという。
注1)文化財建造物 国指定重要文化財建造物十棟、横浜市指定有形文化財二棟、その他六棟
注2)風景庭園 この作庭の理念はイギリスに存在するが日本にはそれまでなく、その独創性が専門家の間で高く評価。
注3)白雲邸 大正九年(一九二〇)建築。逝去されるまで二十年間住まわれた。玄関を入ると洋風を加味した広間(三十畳)があり、奥に日本間がある。この三十畳の広間は食堂兼談話室で三溪園グループ(小林古径・安田靫彦・今村紫紅・前田青邨・速水御舟等)と呼ばれた画家や学者(和辻哲郎・阿部次郎・谷川徹三・矢代幸雄等)がしばしば夜を徹して美術論を交わしたところである。
三溪・原富太郎は益田孝(三井物産創始者)細川護立(元首相の祖父)と並び称された美術品収集家でそのコレクションは最盛時で七千点を数えたと言われ、現在でも国宝や重要文化財の指定を受けているものが多い。著名なものの一つは「孔雀明王」画像(国宝・文化庁所有)明治三十七年(一九〇四)井上馨から壱万円で譲り受けたと言われる。一つは佐竹家伝来三十六歌仙切「小大君」(大和文華館所有)
三溪翁は今様に言えば利益を社会に還元するという信念を持っていたようで、明治三十九年(一九〇六)には三溪園を無料で公開した。そして、その後美術界への協力だけでなく個々の美術家への金銭面の援助を開始し、更に貴重なコレクションを見せて新しい創造の糧に資した。
翁は時の流れを超越した文化遺産の美の理想郷を造り、新美術の創造をめざしたと思われる。
三溪は、慶応四年(一八六八)岐阜県厚見郡佐波村(現在は岐阜市柳津町佐波)の青木家に生まれた。代々名主格をつとめる旧家であり、学問・芸術にも親しむ環境であった。
東京に出て、跡見女学校の助教授として歴史を教えるかたわら、早稲田大学の前身である東京専門学校に入学して政治・法律を学ぶことになったのは、明治二十一年、三溪二十才の時である。跡見女学校での教え子の中に横浜の豪商原善三郎の孫娘がおり、その善三郎に見込まれ、明治二十五年養子となった。そして当時日本貿易の大宗であった生糸の生産・輸出に従事し、第一次大戦までに養家の身代を何千倍かの巨富に築き上げたのであった。
三溪は、生来古美術に造詣が深く、大茶人であり、大蒐集家であったが、単なる骨董蒐集家や美術コレクターにとどまらず、日本文化美に対する確固たる歴史観を把持して、日本の文化美を再建し、その世界を現出させようとし、多くの古美術を蒐集し、古建築を移して三溪園を造園した。
また、岡倉天心とも親交深く、三溪自身も書画をよくし、独自の歴史観に裏付けられた見識と蒐集品を通して、天心なきあとの新進美術家の養成に力を入れ、横山大観・下村観山、その後に、小林古径・速水御舟・前田青邨ら近代日本画家を指導育成した。大正時代には、画家だけでなく、田中親美・和辻哲郎・谷川徹三らの学者・文化人が多く集まった。三溪は、美術品を蒐集家一人の占有物に終わらせずに社会の共有性を認め、少壮の芸術家、学者ら文化人と自由な比較研究を行い、三溪園グループを形成した。東京美術学校の講師だった矢代幸雄はそのころの三溪を回想して「日本の文芸復興の前夜のような気がする」と書いており、和辻の名著「古寺巡礼」はこの文芸復興前夜の三溪園から生まれたのであった。
しかし、大正十二年の関東大震災による横浜の惨状を目の当たりにして、蒐集を断念し、横浜貿易復興会長として不惜身命財で横浜の復興に生きたのであった。そして引き続いて起こる経済恐慌、軍団主義の中でついに再び蒐集活動活発化することはなかった。
昭和十四年家族、知己に見まもられながら雪舟の「山水画巻」を枕頭に置いて瞑目した。満七十一才・柩を飾ったのは園内の池から切りとった蓮花一枝だけであった。
明治三十四年 第二銀行頭取。
明治四十三年 生産調査会委員に。
大正三年 帝国蚕糸株式会社社長に。
大正九年 横浜興信銀行頭取に。
大正十一年 神奈川県社会事業協会会長に。
大正十二年 横浜貿易復興会会長。日本工業倶楽部副会長。
大正十三年 帝国経済会議員(議長内閣総理大臣)。日本郵船株式会社取締役に就任。
大正十四年 南満州鉄道株式会社監事に就任。
三溪園は横浜市の東南部元本牧海岸に添い、三つの溪谷に跨って造られている。その広さ十七ヘクタール、自然の山や谷をそのまま取込んだ庭園で、原家三代故富太郎が雅号を三溪とつけた程、精魂を傾けて造った名園で、明治三十九年五月一日に開園された。
三溪が美術愛好家であったことは著名であるが、単なる骨董趣味でなく、優秀な美術品の蒐集とともに、新芸術の育成にもつくし、日本美術院の秀才たちに多くの援助を与え、今日の日本画壇に多大の影響を与えたのであった。その蒐集は国宝孔雀明王の仏画を始め名品の数も多いが、わけても関西や鎌倉より寺塔、殿舎、楼閣、茶席等の逸品を集め、これを庭園に配して建てたさまは、蓋し一世の偉観であった。
これら数多い建物のうち、昭和六年十二月十四日文部省告示によって国宝の指定を受け、その後文化財保護法により昭和二十五年八月二十九日付をもって重要文化財に指定された建物は七棟に及ぶ。しかし戦時中近くに高射砲陣地があったため爆弾による多くの災害を受け、戦後の混乱にまた多くの人為的被害をこうむるなど、その荒廃ぶりは目をそむけさせるものがあった。しかし原家当主良三郎氏はこれら重要文化財建造物を公共団体に寄贈を決意した。昭和二十八年八月三日財団法人三溪園保勝会が設立され、庭園の大部分を譲受けると共に、昭和二十九年三月より復旧の工事に着手し、多額の国費と、県及び市よりの補助金により約五年の月日を費やして修理を完成し、漸く旧観を呈するに至ったのである。
なお、昭和三十五年六月に天授院が重要文化財の指定を受け、又同年十一月には岐阜県より飛騨の民家重要文化財旧矢箆原家住宅の移築が成り当園の重要文化財建造物に異彩を添えている。