金華まちづくり協議会(自治会連合会 各種団体)公式HP
岐阜市金華校区コミュニティ情報サイト
互金助愛
“金華でお互い助け愛” ネットワークサービス GNS
People who live in KINKA, connect each other, help each other.
ホーム›金華日々徒然› 金華の景色四季折々エッセー › 「岐阜の風土は、粘り強い一度決めたら諦めない、そして公を大事にする品位の人を生んでいる」村上義紀 元早稲田大学副総長・常務理事
村上 義紀
元早稲田大学副総長・常務理事
岐阜の風土は、粘り強い一度決めたら諦めない、そして公を大事にする品位の人を生んでいる。岐阜県は三つの河川が育む郷土である。名古屋から西に向かう車中から、木曽川、長良川、揖斐川を渡る時、水と戦い、水を利用し、苦難を克服してきた民の歴史に、郷土が生んだ早稲田人に思いを馳せる。
坪内逍遥(1859~1936)は、美濃加茂に生まれた。東京大学を卒業するや東京専門学校(のちの早稲田大学)に迎えられ、文科(文学学部)を創設、多くの弟子を育てた。晩年は海の見える熱海の双柿舎でシェイクスピアの全作品を翻訳、その記念に坪内博士記念演劇博物館が学苑に建った。今も貴重な資料が寄贈され、演劇研究のメッカである。
そして以下の方々はみな早稲田に学んだが、美濃加茂生まれの津田左右吉(1873~1961)は、後、早稲田で教鞭をとり、東洋哲学・日本古代史研究で1949(昭和24)年、文化勲章を授与された碩学である。
原(青木)富太郎・三溪(1868~1939)は、羽島郡佐波村(現岐阜市柳津町)に生まれ、法律を学んだ。生糸で財を成した横浜の原善三郎の孫屋寿と結婚、原家を継いで巨大な財を成した。が、その財を投じて海辺の横浜本牧三之谷に三溪園を造り、1907(明治39年)に無料で市民に開放した、いわば社会貢献の先駆者である。その精神は、関東大震災で多大な被害を被った横浜の復興に会長として尽力、港、山下公園、その前のホテルニューグランド等を造って復興させ、今も多くの訪問者を惹きつける。
原と共に横浜の復興に尽力し、このホテルの初代取締役となった野村洋三(1870~1965)は、揖斐郡大野町出身である。文科で英語を学び、戦中、戦後の昭和を生き抜き、ホテルに滞在したGHQマッカーサー総司令官に食料を要請、日米協会や横浜商工会議所会頭を務め、伝説の男となった。
八百津に生まれて外交官になった杉原千畝(1900~1986)は、高等師範部で英語を学び、外交官になって「命のビザ」を政府の命に背いて発給、人道の精神を優先してユダヤ難民を救った。
そして今も健在の映画監督、篠田正浩(1931~)は、加納高校を卒業して文学を学び入学と同時に競争部に入部、箱根駅伝に出場して2区を走ったが、卒業後、映画界に投じて数々の名作を世に問うた。