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ホーム›金華日々徒然› 金華の景色四季折々エッセー › 横浜に貢献 岐阜出身の原三溪と野村洋三 所 功 京都産業大学名誉教授、モラロジー研究所教授
横浜市本牧三之谷の「三溪園」を初めて訪ねた。午前中雨模様であったが、正午ころ入園し、一人でゆっくり外苑を巡覧するうちに晴れあがり、紅葉が一きわ映えて美しかった。
ついで午後二時ころ、岐阜聖徳学園大学の林憲和氏が世話役となって、柳津や大野町などからバスで来られた人々を迎え、一緒に同園のベテラン・ガイドの面白い説明を聴きながら、内苑の要所を夕方まで見学した。
原三溪(冨太郎)は、明治元年(1868)現在の岐阜市柳津町佐波に青木久衛と琴(南画家高橋杏村の娘)との間に生まれた。大垣や京都で和漢の学や書画を習い、上京して跡見女学校の助教諭となり、東京専門学校(早大の前身)にも通っていたが、生糸商店原善三郎の孫娘屋寿(やす)に見染められて、原家の養嗣となった。
そこで、数年間修行を積み、同三十二年から家業を継ぎ、原合名会社代表・第二銀行頭取などとして活躍し、行き詰まった富岡製糸場などの経営再建にも尽力している。
しかも、その収益を私せず、廃棄されそうな国宝級の仏殿・寺塔などを購入・移築して同三十九年(1906)「三溪園」を造り、市民に無料で公開(没後、横浜市に寄贈)。また、そこに若い日本画家(安田靫彦・前田青邨など)を住まわせ育成している。
さらに、大正十二年(1923)関東大震災で横浜が壊滅すると、その復興会会長を敢えて引き受け、私財も注いで復興に努めている。今日の横浜にとって、三溪は最大の恩人といえよう。
この三溪は、敬神尊王の志も篤く、三溪園内に皇大神宮と楠公社を祀り(共に震災で倒壊)、昭和十四年(1939)七十一歳で他界する直前、後鳥羽上皇七百年祭にちなみ、同上皇の御肖像を皇室に献納したことが『昭和天皇実録』にも記されている。
その夜、山下公園前のニューグランドホテルで懇親会が催された(約90名参加)。このホテルは、昭和二年(1927)開業し、十年後に経営を任された野村洋三の「おもてなし」(すべての宿泊客に毎朝握手など)により好評を博し、今も発展している。
この野村洋三は、明治三年(1870)私の郷里に近い揖斐郡大野町で生まれ、二十歳で製茶を輸出する市場開拓のためアメリカに渡り、ボストン美術館のフェノロサなどと交わった。
しかも、翌年帰朝の船中で新渡戸稲造(二十九歳)に会って感化を受け、日本の武士道(サムライスピリット)を世界に広めるため、横浜で古美術を扱う「サムライ商会」を開いた。それを応援したのが前述の原三渓であり、洋三も関東大震災からの横浜復興事業に三溪のもとで全力を尽くした。戦後も日米文化交流協会の会長などとして活躍し、昭和四十年(1965)九十五歳で天寿を全うしている。
懇親会場では、洋三の嫡孫弘光氏(八二歳)の出迎えを受け、また来賓の芳賀徹先生(京都造形芸術大学名誉学長)や坂井田節先生(柳津高桑の「星桜」命名者)などと楽しく懇談することができた。