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〒500-8003 岐阜県岐阜市大宮町2-18(岐阜公園内)
banshokan.co.jp
(林レポータ―)
萬松館の歴史も古い。明治21年岐阜公園開設と共に、魚屋町に江戸時代から商っていた「松半」こと杉山半次郎さんに岡本太右衛門、渡辺甚吉、10代桑原善吉氏らが頼み込み移転営業したことが、現在の萬松館の始まりだそうである。
半次郎氏は、笠松の杉山鍵次郎(岐阜新聞杉山会長の祖父)、本巣の飯尾保太郎と共に岐阜の謡曲三羽烏と言われ、金華山焼をはじめ、芸術に造詣が深く、現在、岐阜県美術館に杉山コレクションとして名品が多数寄贈されているほどである。
天皇陛下をはじめ、宮さま、伊藤博文、山縣有朋、原敬、高橋是清らが愛用した名料理旅館である。昭和生まれ世代には、萬松館は天皇陛下がお泊りされるところという印象が深く、岐阜の迎賓館の名こそふさわしいところである。
明治末期から大正昭和の初め活躍した松ヶ枝町在住の西川子房姐さんは、伊藤博文の思われ人で、伊藤博文が東海道を通るたびに萬松館に泊まったそうである。本名は、伊藤ふさという。ほかに有名どころでは、柳原美奈子ほか、愛子、坂野あいも共に、松ヶ枝町に住んでいた。ちなみに大正時代まで松ヶ枝町は岐阜の芸者町であったそうで、大正末期から末広町に移っていったそうである。
私事ながら、わが家の次女が嫁いだ美濃加茂太田宿の脇本陣林家の5代前の林市郎左衛門(貴族院議員)の次男 林栄吉由章が、桑原家に養子入りして10代善吉を名乗り、市議、県議、貴族院議員、岐阜商工会議所の設立発起人となり2度会頭を務め、岐阜木材業組合を結成し初代組合長を務め、十六銀行頭取を大正昭和と2度務めた人である。その善吉氏が萬松館生みの親の一人であることは不思議なご縁である。
さらに、板垣退助が岐阜公園内の中教院で講演後、刺された遭難事件「板垣死すとも自由は死せず」は有名であるが、前日宿泊した所が美濃加茂太田宿の脇本陣林家であった。当主 林小市郎(市郎左衛門の長男)が同じ自由党の議員であるよしみで宿泊したという因縁であった。そんな訳でか、茶室華松軒の北隣に聳え立つ板垣退助像は萬松館の方を向いているような気がする。これまた意外であるが、その板垣退助像建立の式典には、板垣退助夫妻が臨席されたそうである。遭難事件ではあったが、決して殉難死ではなかったのである。
ついでながら、家内の両親が神奈川から岐阜に来る時はいたくお気に入りで、必ず萬松館に泊まり、孫らと会食することはこの上のない楽しみであったようだ。わが家の両親の法事でも度々お世話になり、次女の先の林家と両家初対面の慶事でもお世話になった。長女の子供のお食い初めでもお世話になり、わが家の記念行事の折々でお世話になった悲喜交々の思いが去来する特別な場所といえる。
最後にもう一話、私が代表幹事を務める岐阜東洋文化振興会(岐阜市長良川大学でも毎月、「論語講座」、「易経講座」、「小学講座」を開催)の前身で、上松貞次郎氏が中心となり岐阜の政財界の方々が安岡正篤先生を招いて行う勉強会、「岐阜而学会」当時のお話である。安岡先生が岐阜に来られる時は、よく萬松館を例会に利用されたそうである。ある時、東京から若き石原慎太郎氏が参加したが、安岡先生から座敷に入れと言われるまで、決して座敷には入らず、廊下で居住まいを正して端座されていたそうである。我が友人で現在85歳になる元代議士秘書佐藤一峰氏が、度々酒の席で懐かしく話される物語である。そんな数々の物語を生んだ老舗料亭が、萬松館である。
現在では、四季折々市民茶会をはじめ、様々な文化行事が開催され、岐阜の和文化の殿堂と言える活況をていしている。また一昨年までは、90歳になると岐阜市主催で高齢者お祝い行事が行われ、鮎雑炊をいただくことが高齢の岐阜市民の物語であったようである。