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ホーム›金華日々徒然› 寺社の紹介・心通信 › 教圓山 地蔵寺(木挽町 きょうえんざん じぞうじ)-寺社の紹介・心通信
宗派 臨済宗妙心寺派
住職 高橋文洪 (11世)
住所 岐阜市木挽町15番地
本尊 薬師如来
開山 大法正眼国師盤珪大和尚
由来
当山は享保13年(1728)の開基で、月江理清禅尼の発願により、岐阜市下竹屋町土居原にあった庚申堂を移した。享保19年(1734)に美江寺町の天台宗観昌院塔頭瑞応院を譲り受け、官許を得て寺号を教圓山地蔵寺と改めた。大法正眼国師盤珪大和尚を開山始祖に真性浄明禅師逸山大和尚を、創建興祖に勧請して法燈を建立し、臨済宗妙心寺派所属の寺院となった。この庚申堂がなければ地蔵寺の創建は不可能であった。庚申待や千躰地蔵供養で賑わう寺である。
庚申様
『庚申青面金剛童子(こうしんしょうめんこんごうどうじ)』という明王様で三猿『見ザル聞かザル言わザル』を眷属に持っています。当山では秘仏になっておりますので外観からは本尊を拝見できないのですが、三猿が真前に数々安置してありますので容易にそれとわかります。
三尸(さんし)説
『三尸』とは人の体内に住む三匹の虫で、それぞれ頭部(上尸)・腹部(中尸)・脚部(下尸)に潜むとされています。 人の体内に潜む三尸には形はなく、実は鬼神や霊魂の類です。人が死ぬと、三尸は体外に出て好き勝手なことができるので、常に人の早死を望み、庚申の夜、眠っている人の体から抜け出して天にあがり、人間の罪過を事細かく天帝に告げるとあります。 天帝は、庚申の日には門戸を開いて多くの鬼神たちから人々の善悪の業を聞き、その功徳や罪過の程度に従って賞罰を科すのですが、その最たるものが寿命の伸縮と言われています。 人間には誰しも過ちを少なからず持っているものです。それを60日ごとに天帝に報告されて寿命が短くなるのは困るわけで、そのために庚申の夜、三尸の虫が体内から抜け出られないように徹夜して過ごすことが必要と説くのが信仰の骨子です。
特定の神仏に祈るものではなく、ただ庚申の夜一晩を寝ないで過ごすという特異な行為で、これを『守庚申』と言っていました。
この庚申の御遊という形で、一夜を眠らずに過ごして長寿を願う守庚申の風習は、鎌倉・室町時代になると上層武士階級へと拡がり、室町末期から江戸時代にかけ武士から民衆に急速に広まっていった俗信です。 室町将軍家あるいは織田信長が庚申待と称して酒宴乱舞の宴をもったとの記録もあり、これを『庚申待』といいました。
当山の庚申様は同町内般若寺の本尊様・元浜町庚申堂本尊様と共に美濃六庚申札所の中の岐阜城下町三庚申の1つとしてお祀りしております。
庚申待とは、当時流行していた“日待・月待”といった行事と同じく、夜明かしで神仏を祀ることから「待」といったのではという説もあります。
古書「庚申之本地」(1527、室町末頃)に『貴賤上下ともに庚申を守れば七福が生ずる。貧人はその分にしたがって供物せよ』とあります。
身分関係なく御参りの皆様がそれぞれ御供の酒・食べ物を持ち寄り御供お勤めし、それを皆で頂き一夜を過ごす。昔は供養祈願の一面もあったでしょうが、又楽しみでもあったのではと推察すると大変興味深い行事ですね。
年間行事
地蔵盆、山門施餓鬼、千躰地蔵祭 8月24日
庚申待 (庚申の日 60日毎・年6~7回)
当山では、庚申待として昼前に法要を厳修し、御斎を頂き解散するという略式にて、修行しています。
近来の伽藍
昭和34年伊勢湾台風による堂宇の被害が著しく、先代が伽藍・塀・山門を改装修繕する。
又、上記寺院由来を踏まえ発願し、庭の片隅の寂れた社に納められていた秘仏の青面金剛像を本堂南西の一角に作檀安置し庚申日に法要供養を行うように整備された。
さらに、外庭に地蔵石小社と本尊横に小地蔵立像があるのみであったため、寺号に相応しい堂宇をと地蔵堂建築を腐心され、千躰地蔵堂を完成された。
現在(行事)
庚申待に関しては60年に一度庚申年の初庚申に開帳法要を行うということであったが、現住代、参詣者の要望もあり庚申に拘らず12年に一度(甲申・丙申・戊申・壬申)小規模の開帳法要を行うようになった。 特に千躰地蔵祭と共に重きをおいて法要を行っている